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 私の生まれ故郷は、佐世保市の郊外、相浦川の中流に位置する田園地帯です。私は高校までをこの地で育ちました。今は住宅地になり昔の面影はわずかに残っているに過ぎませんが、昔はこの街を平戸街道が通っており本陣がありました。平戸街道とは、長崎県平戸市田平を起点に東彼杵で長崎街道に合流する道で、本陣6ヶ所、一里塚13ヶ所が置かれ主に平戸藩主松浦氏の参勤交代や長崎勤番への往来に使われていました。そして伊能忠敬や吉田松陰もこの街道を通ったとの事です。私の小さい頃、市バスの停留所は『中里宿』と呼ばれており昔の名残がありました。

yoshida-3 この地には、旧石器時代から将冠岳の裾野に人が住みその当時の石器がたくさん出土しています。高校時代の一時期、考古学研究会に所属しており、石器を求めてよくこの丘陵を歩き回りました。黒曜石の先を削った矢じりや石の包丁が畑の中で見つかったりしました。又、中世には松浦党の宗家_相神浦(あいこのうら)松浦氏がこの一帯を支配し城を築きましたが、後に平戸松浦氏に取って代わられたとの事です。たどれば私の先祖もこの平戸松浦藩に属しておりました。

 近くにあるお寺は東漸寺といい境内に生える樹齢500年の大楠は県の天然記念物になっています。このお寺は平戸藩祈願寺でもあり山門は平戸藩主の寄進との事です。小学生の頃この木を何人で囲めるか試したこともありました。

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 又、この頃はあちこちに炭鉱があり、いわゆる北松炭田(佐世保炭田)といわれる地域でもありました。現松浦鉄道は当時国鉄であり、採掘した石炭を貨車に積む大きな施設もありました。相浦川も選炭の水で汚れ川底が見えないくらいでした。学校も炭鉱で働く人達の子供達が大勢いましたが、エネルギー革命による閉山で一人減り二人減りと、親しかった仲間が次々転校していったのを覚えています。現在炭鉱の址は住宅地になっています。

 実家には年に数回帰るくらいなので、「ふるさとは遠きにありて思うもの・・・」という室生犀星の詩の心境です。