公募原稿
「さわる」ことと「ふれる」こと
税理士法人福岡中央会計
代表税理士
瀬戸 英晴Seto Hideharu
 この正月、茶道をたしなむようになって、初めて初釜茶会の正客を務める予定でした。亭主の趣向を会話に織り混ぜたり、進行を促したりと、難しい役回りで緊張していたのですが、新型コロナの感染拡大を受けて茶会は中止になってしまいました。
 今回の茶会では、回し飲みによる感染を防止するために「各服点(かくふくだて)」という点前を用意していました。これは、濃茶碗を主客から次客、三客へと手渡しで回し、同じ茶碗のお茶を一緒に喫するのではなく、次客以降の客に対して水屋で点てて用意したお茶を盆に乗せて、めいめいに一椀ずつ供するという作法です。
約百年前、大流行していたスペイン風邪の感染を懸念して、回し飲みを避ける方法として考案されたのだそうです。
 感染拡大の局面で衛生を重視することは当然ですが、濃茶の回し飲みには、亭主の点てたお茶を客全員が共有することで生まれる、いわば茶席の場が同期するような関係を醸し出すところがあります。これは非接触の作法では体験することのできない、お茶の醍醐味だと私は思っています。
 この非接触の時代に「ふれる」ことについて論じた『手の倫理』(伊藤亜紗著 講談社選書メチエ)には、色々なことを考えさせられます。美学者である著者は「さわる」ことは物としての特徴や性質を確認することであるのに対し、「ふれる」ことは人との相互作用が含まれているとして両者を分けて考えます。私たちは「さわる」を避けようとして「ふれる」まで捨ててしまうような、「産湯とともに赤子を流す」時代を生きているのではないか、と著者は指摘します。例えば、あの人は障害者だからこのように接しておこうとラベリングするのは、「さわる」対象として人に接する態度です。
 「多様性」の掛け声のもとに進められている多くのことが、ここにとどまります。これに対して、著者はお年寄りの出入りを自由にしているグループホームの例などを挙げて、人と「ふれる」関係を築いていく方向性を示しています。お年寄りはこの環境によって、他者からの敬意を取り戻し、尊厳を持って生きることができるのです。
 「ふれる」ためには、人をコントロールしようという態度ではなく、その都度のふるまいを信頼することが必要です。これは茶会を成り立たせる、心地よい信頼関係にも通じるものだと思います。