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yoshida_k_2 昨年秋、大学時代の同窓会を福岡で開催しました。日本全国から来てくれたのですがその中の1人が私の住んでいる地域でお勧めの場所はないのかと申します。彼は支倉常長(江戸初期、伊達政宗の命を受け渡欧した人物)の末裔でもあるせいか歴史好きであり、一体何所へ案内すれば喜ぶかとあれこれ思案した結果“宗像大社”に連れて行く事にしました。辺津宮本殿を参拝の後、『神宝館』を案内しました。
 皆様既にご存知かも知れませんが、“宗像大社”とは辺津宮(宗像市田島)・中津宮(筑前大島)・沖津宮(沖の島)の三宮を総称しています。現在は交通安全の最高の守護神として崇められていますが全国の宗像神社6,000余の総本宮であり、古代より道の神様として信仰が篤く遣唐使なども航海安全の為に必ず参拝していたようです。
 『日本書紀』によれば素戔嗚尊[スサノオノミコト]が姉の天照大神[アマテラスオオミカミ]に邪心の無い事を示すため、持っていた十拳剣[トツカノツルギ](八岐大蛇を退治した際に用いた)と珠を交換し誓約をした時、天照大神がその剣を天真名井ですすぎ、これを噛み砕いて口から霧を吹いたところ、その霧から三人の女神が生まれたとされています。そして、それぞれが辺津宮・中津宮・沖津宮に祀られています。
 又、宗像地域から筑前大島・沖ノ島を結び延長すると対馬の北部を経て朝鮮半島釜山へ渡る直線となります。この海の道を『海北道中』というとの事ですが、険しく航海に大変な危険を伴う海を畏敬し特に沖ノ島は航路の守護神として祀られたようです。
 この島は、釣川河口の神湊から57km、大島から49kmにあり玄界灘のほぼ中央に浮かぶ周囲4kmの島ですが、航海の安全や交渉の成就を神に祈り様々な貴重品や宝物を奉献したようです。昭和29年以来三次にわたる学術調査によって4段階にわたる祭祀の跡が23ヶ所確認され4世紀後半から10世紀初頭までの約8万点の遺物が発見され全て国宝に指定され、『海の正倉院』と称されているそうです。『神宝館』には朝鮮半島、中国、遥かペルシャからもたらされた数々の宝物が一同に展示してあります。
 そして、この島の祭祀を司ったのが宗像氏とのことです。

yoshida_k_3ところで、宗像は『胸形』、『宗形』とも書き、特に『胸形』は胸に入墨をしている意ともいい、又、『ムナカタ』は『ミナカタ』つまり水辺の意ともいわれているそうです。宗像氏は今の宗像一円から遠賀、鞍手、糟屋方面まで勢力を持つ豪族であり、玄界灘の海上ルートを支配し、そして、その長は宗像三神をお祀りする神官と郡司を兼ねていたといわれています。神湊から宮地嶽にいたる地域にある古墳は一族の墳墓とされ、4世紀後半宗像内陸部に前方後円墳が造られ、5世紀以降は海岸に津屋崎古墳群が形成され、特に7世紀後半に造られた宮地嶽古墳は宮地嶽神社奥の院として知られ胸形君徳善[ムナカタノキミトクゼン]の墓であると想定されています。この胸形徳善の子尼子娘[アマコノイラツメ]は、天武天皇[タケチノミコ]の妻となり高市皇子を生み、さらにその子長屋王[ナガヤオウ]へと続き、大和朝廷と深い関係があったと想像できます。894年菅原道真の建議により遣唐使の派遣が停止されて以降、沖の島の祭祀も国家祭祀から地方の祭祀となり、現在は宗像地方の漁民に支えられた祭事となっています。このことは特に銅鏡が当初は三角縁神獣鏡[サンカクブチシンジュウキョウ]に代表される国宝から、次第に小さくなり最後には丸い土焼きの鏡に似せた形だけのものに変化していった事から推測されます。
 『神宝館』を観た学友が、こんなに素晴らしいものが観られて大変嬉しいと喜ぶ姿に安堵し、この“宗像大社”を研究し本でも出したいと言うのには驚きもしました。
 私も、遣唐使の廃止とともに次第に衰退していった祭祀から世の常を感じさらに、残された数々の遺物から古代に宗像という一地方から、国内では中央政権に結びつき外にあっては朝鮮半島や中国で活躍していた海人を想い、それと伴に、私が高校時代考古学研究会に属し国学院大学の教授や大学生そして、高校の仲間たちと参加した岩下洞穴発掘が懐かしく思い出されたものでした。

※資料は、インターネット等より転用させて頂いております。