篠原の下知とともに、ドン・ドン・ドンと太鼓の音が風に乗って波間にこだまする。佐兵衛ら六人は決意の仕草か互いに顔を見合わせ、佐兵衛を前中央に、前後三人が中腰に屈み、大きく息を合わせ、「うーん!」鬼の形相で立ち上がろうとする。
 群衆は固唾を飲み期待と不安の面持ちで見ている。今は波の音しか聞こえない。一瞬静寂があり砂煙とともに大石が浮いた、と同時に歓声が波の音をかき消した。よろよろと大石が落ちそうな状況にどよめきが起こった。
 「肩が潰れようが絶対落とさん!」一歩、また一歩。すると、皆の思いが乗り移ったのか足取りがしっかりしてきた。一町歩いた、二町進んだ、五町・六町・・・何と十町にも届く程になった。いつしか津屋崎浦の歓声より勝浦側の怒号の方が大きくなっている。

 この様子をじっと見ていた奉行の表情が怒りの形相に変わるや、後を追って走り出し、着く否や刀を抜き大縄を断ち切った。
 「お奉行様、また何としたことを・・?」佐兵衛が息絶え絶えに言った。
 「不届き者め、増長するのもいい加減にいたせ。請願の儀、この所を以って境界といたす。よいな!」
 「有り難うございまする。有り難うございまする。」六人は砂を握りしめ、声を詰まらせ泣き伏した。

 「汝等、請願の罪は免れぬ。明日二日、辰の半刻、福岡城下表まで出頭せい。」

 いつしか陽も西に傾き、何事も無かったかのように、荒波が轟音とともに岩に砕け、遠くでは赤みを帯びた砂浜に細波が寄せ、美しい縞模様がきらきらと輝いていた。

 庄屋佐兵衛が歌を詠んでいる。
「骨砕く 思いもしぶきに消え去りぬ 白石浜の今日の夕映え」

 寛永十七年六月二日、六人は箱崎浜で斬首され、教安寺 六角堂に首塚として埋葬された。
天保五年三月十八日、黒田藩は六人の罪を免じ、義民として祭祀を営むよう命じた。

 オロシアム通信への寄稿に当って50年振りに白石浜を訪れ、大石まで(福津市勝浦4631、フランス菓子店アラペイザンヌから海に出て北へ500m)砂浜を歩き、想像を膨らませ当時の情景を思い描いた。じっと時代を見続けた大石がここにある。
ところが大石から見える景色や寄せる波は同じでも、命を懸け、力の限り踏みしめた砂浜は漂着物で無残な姿となり、後ろに建つ六社宮は雑草に覆い尽されていた。 地元民として情けない。「申し訳ありません。」 合掌

※ 上妻国雄 著 宗像伝説風土記を参考に一部を引用しています。